Naganegi業無報告 2021年5月
- 長ネギさん太郎
- 2021年6月11日
- 読了時間: 10分
更新日:2021年9月2日
ごきげんよう!長ネギさん太郎です。
このUIを弄るのも久々だなあ、懐かしいなあ。
別に忙しくはなかったです、だって無職なので。ただやる気がなかった。
"業務"じゃなくて"業無"なのも無職だからです。
今回は物書きのリハビリがてら、ニート生活謳歌中に"夢中になったもの"について書きたい、いや書く
おしながき
"俺にウマ娘のそばにいる資格はない"
まずは旬なコンテンツから、いってみよう。
流行りには乗ってみたい主義なので、と言いつつもサービス開始から2か月遅れで「ウマ娘 プリティーダービー」のゲームを始めた。
自分は幼少期から、周りとはややずれた物を好む傾向にあったので、流行りに乗ることに少し嫌悪感を感じていたのだが、最近では「流行るくらいなんだから、面白いはず」ということで周回遅れくらいで便乗しても許されるだろと思えるようになってきた。
自分なりの物差しでコンテンツの良し悪しを判断できる、という自信がついてきたからだろうか?
それでプレイ開始から1か月が経ったので軽く感想を述べたい。
結論から言うと、「このコンテンツに触れなければよかった」の一言に尽きる。
別にウマ娘の出来が悪いわけではなく、とても完成度が高いゲームであることは確か。
僕がこう感じたのは、寧ろ完成度の高さ故なのだ。
自分はこういった基本無料のゲームというか、終わりのないゲームやガチャ要素のあるゲームに関してはあまり長くプレイしていられない方だ。
色々手を出してはみたが、毎日ログインしてやっても良いかなと思っているのはパズドラとデレステだけ。
ウマ娘も、「あーこういうコンテンツなんだ」くらいの理解ができればすぐ飽きるだろうなと思っていた。
が、ゲームを始めるや否や流れる、美麗なグラフィックで表現される可憐な乙女たちのステージ。
育成パートやコミュでの、挫折や困難を乗り越え栄光へ駆け抜ける乙女たちの勇姿。
正直「自分はこういった美少女キャラ系ゲームにはハマれないかもしれない」と思っていたのが嘘のように、僕は彼女たちの虜になっていた。
これらの完成度は、ファンや元の競走馬、それに関わる人々への敬意の賜物であると感じる。
それなのに何故、僕はこのコンテンツとの出会いを後悔しているのか?
何故なら、「"自分は孤独も苦ではない"と自分に思い込ませている」自分に気付いてしまったから。
一言でいえば、"恋煩い"だ。
薄々わかると思うが、僕は人付き合いが好きな方ではないし、たまに会うような友達もいない。
家族以外で交流が続いているのは、Twitterで出会った同好の士のみ。
今思えば、それで孤独を満たしていたのかもしれない。
だが、最近ウマ娘をプレイし終わると、その後の静寂に恐怖を覚える自分がいるのだ。
×ボタンを押すだけで、さっきまで微笑みかけてくれていた彼女たちが消えてしまう。
プレイする気力もないのに、ついウマ娘を起動してしまうこともある。
そうすれば彼女たちがまた優しい声をかけてくれて、安堵する。
しかし、そこで考えることがある。
「僕は、彼女たちを支える柱たりえるだろうか?」ということだ。
所詮彼女たちも、プログラムで出来たデータの塊。
こちらが適切な選択をすれば、彼女は僕を信頼するよう仕向けられる。
でも、彼女たちの意識を操作する"プログラム"が無くなってしまえば?
ここからは、狂ったオタクの妄言だと思って読み流してほしい。
彼女たちに認めてもらうために、大胆な行動をとらなければいけないかもしれない。
彼女たちの心の機微を読み取って、トレーナーとして真摯に対応しなければいけない。
彼女たちが何かを成しえたり、節目を迎えるたびに贈り物を買いたい。
あるいは、レースだけでなく人生を共にするパートナーになるかもしれない(未成年に手を出すのはダメだぞ)
そうなった時、僕にはそんな度胸や食い扶持があるか?
そう考えると、「ある」と答える自信はもちろんないし、その自信はつきそうもない。
もし"本当の自分"がこのゲームの主人公だったら、きっと始まる前からゲームオーバーだ。
こんなこと考えているうちに、どんどん自己肯定感が失せていく。
そして、仮に展開の決まっているゲームだとしても「彼女たちは、僕と出会わない方が幸せなのでは?」と要らぬ考えを馳せるようになってしまう。
こんな狂ったたわごとを吐き出すようになったのも、ひとえにこのゲームの完成度の高さがなせる業だ。
自分は、コンテンツの完成度の高さを主に「キャラクター」ではかることが多い。
キャラクターの造形がしっかりしていれば、登場するキャラがやがて受け手の心の中に宿り、「このキャラが〇〇してたら、何と言うだろうか?」といったことまで自然と思いつくはずだからだ。
これはウマ娘においても同様に考えていて、例えば彼女に想いを伝えた時や指輪を渡すとききっとこう反応するだろう、といった「存在し得ない記憶」が、ありありと自分の中で色づいていく。
これも、彼女との出会いや勝利への思い、挫折や周囲との関係性など、キャラに愛着を沸かせる努力を執念深いほど積み上げた成果が、僕といういちユーザーの脳内にウマ娘たちを"棲み付かせて"しまったのだ。
最後に繰り返すが、ゲームとしての完成度は間違いなく高い。
1プレイに時間がかかる上にアクション性は皆無のボタンを画面を押し続けるゲームだが、流行りに便乗して軽く遊んでみるのも一興かと。
(ちなみに推しはダイワスカーレット。素直になれないところや勝利に対して貪欲な姿勢に惚れた。あとバストが大変麗しい)
"シン・エヴァンゲリオン 個人的批評"
今更ながら、エヴァンゲリオンシリーズを観た。
今更すぎて口から胃腸の中身をだらりだらり、出しすぎるほど出した人もいるだろうが、本当に今更だ。
きっかけは昨年のYouTubeでの新劇場版シリーズの無料配信。前から興味もあったし、何より完結編である「シン」が公開を控えていたのもあり、乗っかるなら今だろうということで観始め、さらには旧作もBSやらレンタルで一通り履修し、公開当日に「シン」を観たというわけ。
↑公開当初の雑多な感想もろもろ
感想は上のリンク先で語ったことにしといてもらって(最低)、ここでは僕の「シンエヴァ」に対するスタンスを語っていきたい。
この映画は9年越しの新劇場版シリーズの完結編ということもあって、導き出された結論に関して賛否さまざまあると思うが、個人的には"賛"寄りの評価で考えている。
否定的意見であれば「ファンを散々振り回してきたエヴァが20数年かけて出した答えが、親の小言のような陳腐なメッセージなのか」といったものが見受けられるし、自分もそれに同意できなくもない。
でも僕はあまりそういう目線でエヴァを観ていなくて、「シンジくんが幸せになってくれるならどう転んでも受け入れられるかな」という感覚で観てたので、自分の意思で様々なわだかまりを解消して再編後の世界でエヴァの呪縛から解き放たれた彼を観ると、このシリーズを追って良かったなあと思えた。
他のチルドレンに関して言えば、アスカはすっかり軍人みたいな精神性になってたけどツンデレは相変わらずだなとか、苗字が式波な理由も分かったし(たぶんネルフのクローン人間は苗字が「〇波」)、ケンスケとくっついてるっぽいのはアスカ派じゃないのであまり引っかからなかったけど。
レイ(仮称)も、Qでシンジくんをいじめるための舞台装置かと思ったら綾波レイに匹敵するかわいさを見せてくるとは思わなんだ。
マリは描写が明らかに不足してて愛着の湧きづらいキャラだと思ってたけど、まさか何もわからんままシンジくんとくっつくとは。というか「エヴァの世界を壊す(=庵野監督の外部の価値観)」ためのキャラなので設定とかはどうでもいいんだろうなと。
あとはカヲルくんの利己的な健気さとか、ミサトさんやっぱいい人だったとか、ゲンドウの変態ぶりとか冬月の超人ぶりとか見れたし、他のキャラも今までない一面が描かれて満足(サクラちゃんについては敢えて何も言わん)
色々書いちゃったけど、とにかく「シンジくん(=庵野監督)が、色々な人生を踏まえたうえで自分を救える結論を見つけられた」なら俺もそれを観れて満足だ!という話でした、シン仮面ライダーも期待ですわ
12日からの修正版観に行きたいけどな~俺もな......細かいカット修正とかはたぶんわからんと思うので特典目当て、まさかあのエヴァが破~Q間の考察の答え合わせをしてくれるほど親切になったとは(古参並感)
"子供部屋おじさん、セーラームーンに泣く"
ここ最近は「今まで触れてこなかったコンテンツに触れていこう」をモットーとしていて、上のウマ娘やエヴァもその一環。
あと何か新しいものはないか、と思案していたところ、YouTubeでとあるアニメの無料配信が行われていた。
「美少女戦士セーラームーン」。全く世代でない僕でも名前を知っているほどの有名タイトルだ。
まあ一話くらい目を通しておいてもいいか、と再生ボタンを押した瞬間に鳴り響く鐘の音、その幻想的な空気を破るようにギターがかき鳴らされ、聴いたことのある主題歌「ムーンライト伝説」が流れる。
時代を感じるセル画にバブリーな雰囲気の世界観、小気味よいギャグで進行される日常シーンから、同時期の特撮を彷彿とさせる様式美的な戦闘。
何より、若い女性の肉体のエロティックさ・エネルギッシュさを芸術的なまでの美麗さに昇華させた変身バンク。
気付いたら次話の再生ボタンを押しているどころか、セーラースターズまで90年代全TVシリーズを完走してしまっている自分がいた。
無印の新戦士が登場する度のワクワク、終盤の怒涛の展開。
Rの、逃れられぬ輪廻への苦悩やちびうさの幼気なひた向きさ。
Sの、ウラヌス・ネプチューンの大人な魅力やうさぎの世界を滅ぼさんとするほどの優しさ。
SuperSの、ちびうさが女の子として成長していく過程や強化戦士のかっこいい必殺技バンク。
スターズの、スリーライツとのスタンスが違うゆえの苦悩や、5年間の積み重ねを活かした感動のラスト。
いい年した男だというのに、女児向けアニメで毎シーズン涙を流してしまっていた。
当時の女の子たちに大切なことを伝えるために真面目にアニメ作りに向きあった製作陣の姿勢に感服したし、自分も女の子であればこちらも全力でそれを受け取れたのかなとも思った。
あらゆる生き物にはそれぞれ違った愛のカタチ、夢のカタチがある。
それを表にすることは勇気とも捉えられるかもしれないが、基本的には秘密にしておきたいし、他者の秘密を覗き暴こうとするのは言語道断である。
人の心は読めない、しかし分からないゆえに美しいのかもしれない。
そして分からないゆえに、元気よくぶつかっていけるのかもしれない。
分からないゆえに、心と心の間には分かり合おうとする強い力が生まれるのだ。
そしてその力は、どんな悪も打ち倒すことができる。
戦いの運命に翻弄されながらも、若さと好奇心で恋に勉強に、全力でトライしていく乙女たちの話。
TELASAで全シーズン観れるので興味あればぜひ。
ちなみに実は劇場版Rも実写版も原作も未履修、まだまだこの沼は深そうだ。
"パーフェクトブルーと自他のギャップ"
パーフェクトブルー(アニメ映画)を観た。今敏監督作品としては妄想代理人、パプリカに続き3作目の視聴。
上の視聴直後の感想にも書いたが、この映画には"視線"の演出が印象的に使われている。
そしてこれの意味するところは"自分の思う自分と、他者が望む自分とのギャップ"であり、それが主人公を狂わせた原因でもあると考える。
自分とは一人だけではなく、かかわりのある全ての他者の中にそれぞれ「他者から見た自分(他者が望む自分)」がいる。ましてや主人公はアイドルという影響力のある立場にいたので、「他者から見た自分」がどれだけいるか知る由もない。
そして主人公は、ストーカーに遭っていることと同時に"それ"に気付いていく。
主人公は「女優の自分(現状の自分)」と「アイドルの自分(望まれている自分)」との乖離を感じ始め、同じころ起こり始める惨劇により狂気に蝕まれる。
惨劇の犯人はマネージャーであったが、そのきっかけもまた理想と現実のギャップによるものだろう。
全てが終わった後、主人公は鏡に映る自分と目を合わせ「私は本物だよ」と囁く。
それは果たして誰に向けた言葉なのか?という疑問を感じさせながら、物語は幕を閉じる。
本当はこの映画について書くつもりはなかったが、この「自他のギャップ」という点に思うところがあったので、追加で書くことにした所存。
あと平沢進ネタが多い点でも楽しめた。まとめとかないだろうか?
最近はもっぱらウマ娘の周回ばかりしていたが、この記事を書いてるうちに創作意欲にエンジンがかかる感覚があったので、ぼちぼち他のことも進めていこうかと。
まずはレゴ新作の撮影やら、アームヘッド小説の続きを書いたりとか。
あとサイトのリニューアル計画もずっと前から温めてたので、それもまったり進めていくつもり。
では、ウマ娘に会いに行くのでまたこんど!
長ネギさん太郎
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